届かない想いなら、抱かなかった方がいいーーー   叶わない願いなら、忘れてしまった方がいいーーー   それでも俺がお前を見ていたのは、きっとーーー 「クロトさんはいっつもつまらなそうな顔ばかりしているのね…。」   昔、あまのにそう言われたことがある。つまらなそうな顔だとか、いつも不機嫌にしているだとか、もっと兄のようににこやかにしたらどうだとか。余計なお世話だと思うことばかりをふくれっ面で言われた。   いつもと変わりのない日常の繰り返しにちょっと思い出したことであるから、とっとと忘れてしまえばいい他愛のないことだろう。そう思って特に意識していなかったはずなのに、ここ数日あまのの言葉が頭から離れることはなかった。   昔の俺はそんなに不機嫌な顔をしていたのだろうか。確かに、俺は元来あまり笑わない性質ではある。けれども周囲からの印象は笑わない、というよりも表情の乏しい、よく言えばポーカーフェイス、悪く言えば無愛想、そんな風に見られているらしい。ただ俺が微笑したというだけで周りの連中が大騒ぎしたこともある。そんな馬鹿なという話だが。   周囲がなんと言おうと俺だって単なる人間なのだから、笑うこともあれば泣くこともある。ただ、回数が少ないだけのことでしかない。そんなことはあまのも昔から知っているはずなので、なおさらフラッシュバックされるあの言葉の意味が不可解だ。   いつも通りの庭先。   ふ、と。   軍服を纏った彼の背中が見えた気がした。   ああ…。   不機嫌になる訳だ、俺は口元を歪めながらそう思った。   兄のようになりなさいだとか、兄を手本に生きていけばいいとか。   周囲の人間が言うそんな言葉が大嫌いだった。   あの頃、俺は君影黒斗ではなく、君影白夜の弟でしかなかった。   背の高く穏やかな性質の兄は誰からでも好かれ、慕われ、君影家分家の長男として立派に俺の前を歩いていた。   幼少期の記憶を辿る時はいつもそう、俺が見るのは大勢の人に囲まれ親しげな微笑を浮かべる兄と、それを見つめる幼いあまの、そして少し離れた所からそれを不機嫌そうに見ている自分の姿だった。   不機嫌。確かにそうだ。   確かに、あの頃の俺は不機嫌に違いなかった。   今でも時折感ぜざるをえない違和にいつでもつきまとわれていた。   自分がいなくても君影家は完全なのではないかという疑惑、兄の代替品としてしか自分の価値を見いだせない不安。そんなことがあってたまるかと気を張ってはいたものの、そういうある種の劣等感は気がつくと俺の精神を蝕んでいた。   あの瞳ーーー。   あまのの、あの翡翠色に透き通った瞳が兄のみを映しているのが、たまらなく不愉快だった。 「…れ、…様?……ロト…様…ーーークロト兄様っ!!」 「ん……?…ああ、すまん。」   気がつくとふくれっ面のちはなが目の前にいた。くりっとした二つの翡翠色の瞳が、俺をじっと見据える。 「兄様、ひどいですー!!」   むーっとしたちはなは、その年齢よりも少し幼い印象がある。ちはなと幼い頃のあまのは姿形がとてもよく似ている。柔らかな萌葱色の髪、白い肌、そして翡翠色の瞳ーー。   ただ、あまのは。   あまのは少し、年齢よりも大人びた印象の強い少女だったように思う。 母のこと、君影のこと、自分のこと、兄のこと。そうしたものの全てを、あまのは一人背負ってきていたのだから。 「クロトさんはいっつもつまらなそうな顔ばかりしているのね…。」   お前もじゃないか、多分当時の俺も同じ事を思っていたに違いない。   手に入れることはできないのだとわかっていたーーー。   それでも、諦めることもまた出来なかったーーー。   ちはなの家庭教師が到着したため、彼女にちはなを預け、 俺はあまのの部屋の前にいる。   あの頃よりも古さを増したこの扉に、俺は今まで何度ノックしたことだろう。 「…俺だ。」   いつも通り、ノックをする。けれども、いつもの声は返ってこない。   少し妙だと思いながら、俺は扉を開いた。   あまのはあの時と同じように、窓の外を眺めていた。   あの時。   兄が戦争に出征して、そして帰らぬ人となった時。君影の家ではただ一人、あまのだけがいつまでも兄の帰りを待っていた。   あの瞳は兄の姿を追い続けていた。兄がいなくなってからもずっと、変わらずに。   期待をしていた訳じゃない、ただ、僅かに。兄さえいなければあまのは今度こそ俺を見てくれるのではないかと思ったことは否めない。   そんなことになど、全くなりようがなかったというのに。 「あら、クロトさん。ノックぐらいしてくれればいいのに。」   俺に気づいたあまのが振り返り、肩先までの髪がゆらりと揺れた。 「いつも通りノックはしたんだが。」 「そう…、気づかなかった。…え、もうこんな時間。先生、いらっしゃったの?」   あまのは不思議そうな顔で時計を見て、思った以上に時間が経っていたらしく慌てたように意味もなく玄関の方角を見遣る。 「ああ。」   時間の経過もノックの音にも気がつかないほどに一体何を考えていたのかと、わかりきったことを考えながら答える。 「お茶、出してこないと。」   ちょっと待ってねと言って小走りに部屋を出ていくその後ろ姿には、あの塞いでいた頃の面影は感じられなかった。   兄に似ていると、よく言われた。   それが俺は嫌で嫌でたまらなかった。   自分はまるで兄の模造品なんじゃないかとさえ思うこともあった。   今思えば、どうしてそこまで卑屈に考えていたのかも不思議なくらいに。   右眼に翡翠、左眼に赤褐色ーーー。俺は異なる色の眼をしている。   それが俺は嬉しかった。   あらゆる所で兄に重ねられる中、兄とは完全に異なる要素があることが嬉しくてたまらなかった。   翡翠色の瞳は君影の特徴ともいえる。   君影にふさわしくない左眼を隠せと渡された、鈴蘭の刺繍の入った黒い眼帯。   俺はそれで右眼を隠した。   俺の中に生き続けている兄の面影を消すように。   あまのが俺の中に兄の姿を見いだせなくなるように。 「兄様は…、まだきっと…っ!!!」   その言葉の続きを、俺が一番恐れていたのだということも今ならわかる。   痛いほどにーー。   目の前の花が枯れゆく姿など、俺は見たくもなかったんだ。   夜、寝付こうにもあまのの声に起こされてしまい、どうにも眠りにつくことが出来そうになかった。秒針が時を刻む音が五月蠅いくらいに静かな部屋に響いている。   いつもなら嗜むことのない酒でも、睡眠薬代わりに飲んでみようかと廊下に出てみると、あまのの部屋の灯りが扉の隙間から漏れているのが見えた。 「…俺だ、入るぞ。」   微かにあまのの返事が聞こえたので、部屋に入る。どうやらあまのは本を読んでいたらしかった。 「寝ないのか?もう遅い…。」 「うん、少し…。それより、クロトさんこそどうしたの?いつもならとっくに寝ている時間なのに…。」   持っている本をぱたりと閉じて、あまのは俺を見上げた。 「なんだか眠れなくてな。」   素直にそう答えると、あら珍しいとあまのは意味深く呟いた。 「……もう、寝るのか?」 「うん、灯りを消してもらえる?」 「ああ…。」   部屋の灯りを消すと、まだあまのが起きているにも関わらず部屋の中がしんとする。 暗がりの中でようやくあまのがベッドに腰掛けていることがわかる。 「それじゃ…。」 「あっ、待った。」 退室しようと踵を返すものの、あまのの声に呼び止められ、振り返る。 「…何だ?」 「ちょっと、こっち。」 意図がわからないまま、手招きに従う。もっとと言われたので仕方なく屈むと、あまのは俺の首に腕をまわした。 「…?」 しゅるりという布の擦れる音がして、眼帯が解かれる。 「寝るときくらいは、取りなさいよ…。」   口ではそう言うものの、あまのは俯き俺の瞳を見ないようにしている。   俺の方を向かせようと、ただそう思っただけなのに。   気がつくと俺は、あまのの頬に手を添えて、その唇にキスをしていた。 「…クロト…さん?」   一瞬の放心の後、身体を強ばらせたあまのを抱きしめ、そのまま押し倒す。 柔らかな温もり、鈴蘭の心地よい香り。 あまのの細い躯が折れてしまうのではないかと思うほどに腕に力が入ってしまい、身体が言うことをきかない。 俺を見ろ、と。   俺だけを見ろ、と。   あの頃から募ってきた濁った感情が俺の中で響き合い、共鳴する。声に出すことの出来ない感情の激流に、身を任せることすら煩わしい。   今の俺はきっと、そこまで不機嫌な顔はしていないんじゃないかと。   そう思った途端にあの声のことも馬鹿馬鹿しく思えて、思わずふっと笑ってしまった。   腕の中に安らぎを抱きしめたまま、俺の意識は薄れ、そしてぷつりと途切れてしまった。   君影あまのは誰にも渡すつもりはない。   何故なら彼女は、俺が昔から求め続けてきた、想い続けてきたその人なのだから。 「おやすみなさい、クロトさん…。」 堕ちる前の僅かな意識の中、最後に聞こえたのはーーー。   狂おしいほどに愛おしい、想い人の声だった。   その日以来、俺が幼いあまのの声を聞くことはなかった。