広い背中が纏う、深緑色の軍服ーーー。   まただ、と心の中で呟く。   また、大好きな人が戦争に行ってしまう。   今度は、クロトさんがーーー。 「…絶対、帰ってきてよね…。」   頭の中が悲しみでぐちゃぐちゃになって、出てくるのはそんな子供っぽい言葉だけ。 「当たり前だ。」   いつも通りの揺るがない口調は、けれども声の主の表情がわからないため、不安をかき立てるばかり。   また、あの時のようにーーー。   隣では、ちはなが泣いている。   ああ、そうか。この子にとっては初めてのお見送り。   昔の自分の姿が重なって、見ていることができなかった。 クロトさんのいなくなった家で、それでも時は緩やかに、残酷に過ぎていく。   どれくらいの月日が経ったのだろう。   私はあの時と同じように窓辺に立ち、外を眺めている。   そうして、いつ帰るかもわからない人を待ち続けている。    雲一つなく晴れ渡った空が、少し憎たらしい。   この空の下のどこかにいるはずの人は、どうして私の隣だけに居てはくれないのかとーーそう思う。 「姉様…!!姉様…!!!」   慌てた様子のちはなが、ノックもせずに部屋に飛び込んできた。その表情が喜びに満ちているのを見て、甘い期待が胸に広がる。 「兄様が、帰ってきました!」   待ち続けた言葉が、部屋いっぱいに響きわたる。   弾かれたように立ち上がって、今すぐにでも会いたい。   その衝動を、天の邪鬼な自分が止めに入った。 「すぐに行くから…、先に。」   そう言ってちはなを先に行かせる。   とたとたというちはなの駆けていく音が、だんだんと小さくなっている。   帰ってきたーーー。   クロトさんは、帰ってきたのだ、と。   じんわりと温かい喜びが、胸に広がりあふれていく。   けれども一方で。   冷静になった頭が、不吉なことばかりを告げる。   怪我は、ないのだろうかとか。   女の私が知らない戦場は、しかしとても残酷な場所と聞く。   彼の心が壊れてしまっていたら?   あの笑顔を、もう二度と見られないとしたら?   そうした不安の渦で胸が張り裂けそうになる。 「クロトさん…!!」   不安を打ち消すようにこぼした名前が、静かな部屋に馴染むことなく漂う。 早く会いたいーーー。   早く会って、抱きしめて、その存在を腕いっぱいに感じたい。   あの温もりに、あの声に、あの髪に、あの赤褐色に輝く瞳に。   触れて、いっぱいに、感じたいーーー。   後に当主になるだろう者の帰還に、家の人が全て玄関先に集まってきたらしい。   人が多くて、騒がしい。 「クロトさん…?」 背の高い背中が見える。 人をかき分けて、その姿を見ようとする。 あまりのことに、皆我を忘れたようにはしゃいでいる。 深緑色の、その背中。 声に気がついたのか、こちらに振り向こうとする。 紫紺の髪が、ゆらりと揺れる。   振り返った顔に輝くのは、翡翠色の左眼ーーー。   軍服の似合わない、穏やかな微笑が私に向けられる。 「……白夜、兄様…っ!?」 思わず叫び声をあげそうになるのを、必死でこらえた。 「…ただいま、あまの…。」 私に歩み寄る、甘く優しい声ーーー。   けれどもそれは、私の求めていたモノとは違っていた。 「随分と、待たせたね…。」   頬に触れようとする白く大きな手を、私は拒絶する。   愛おしくて愛おしくて、かつては狂おしいほどに求めていたその手も、今は要らない。   私が求めているのはただ一つーーー。 「クロトさんは……何処?」   全身を襲う寒気に、声が震えていた。   身体ががたがたと震えて、芯を失い崩れそうになる。   強い、喪失感。   胸を切り裂くように、激情が私の心を蝕む。   あの人への慕情が、熱く熱く、私の傷口を焼く。 「姉様、何を言っているのです…?」   兄様に抱きついたちはなが、不思議そうな声を出す。 「ちはな、違うの…その人は…。」   頭の中に鋭い金属音が響いて、私の声をかき消してしまう。   違う…、違う……っ!!!   違和感に空っぽのはずの胃の中のモノがせり上がってくる。 「どうしたんですか?姉様…。」   ちはなが振り返る。 「ちゃんと、白夜兄様が、帰ってきたじゃないですか…。」   ちはなによく似た萌葱色の髪、翡翠色の瞳。 けれども、そこにいたのはちはなではなくて。 幼い日の、自分だったーーー。 「………っ!!!」   力の限りあげた、自分の悲鳴で目が覚めた気がした。それが夢の中のものなのか、それとも実際に叫んでいたのかはわからない。   嫌な夢を見た。   クロトさんが出征して、帰らぬ人になって。   代わりに白夜兄様が帰ってくる夢ーーー。   乱れた息を落ち着かせながら、夢とわかった今でもこみ上げてくる喪失感に、鳥肌が立つ。   いても立っても居られない気持ちのまま、部屋を出る。   気がつくと、私は息を切らしながらクロトさんの部屋に来ていた。 「クロトさん……。」   時計の音しか聞こえない静かな部屋の中、私は彼の名前を呼ぶ。   返事なんてものは、期待していない。 こんな夜もすっかり更けた時間、クロトさんはぐっすりと眠っているに違いない。 それでいい、これからする私の懺悔など、形ばかりの自己満足でしかないのだから。 返事など、求めてはいけない。 一歩、彼の方に近づいた。ぎしり、と床の軋む音がする。 「……ごめん、なさい…。」 震えた声が、辺りの静寂に飲み込まれる。   時計の音が一際大きく聞こえた。 「……ノックをするんじゃないのか…?」   いつもよりも穏やかなクロトさんの声が、私の胸に突き刺さった。   驚きのあまり、息が止まりそうになる。 暗い部屋の中で、赤褐色の瞳が輝いているのが見えた。 扉の開く音で目が覚めた。 誰かの乱れた息が聞こえる。ちはなが怖い夢でも見たのだろうか、そう思って起きあがろうとしたその時。 「クロトさん……。」 消え入りそうなほど小さな声で、名前を呼ばれた。 その声から、突然の来訪者があまのであることを知る。  秒針の刻む音だけが響く部屋の中。 「……ごめん、なさい…。」   あまのの声は、何かに怯えるように震えている。   薄目を開けると、暗闇の中であまのの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。   その肩が、小刻みに震えている。 「……ノックをするんじゃないのか…?」   たまらずに、こちらが既に目覚めていることを知らせる。   息を飲む、小さな音がした。   ーーー俺に怯えている?   驚きのあまりか、馬鹿げた考えが脳裏を掠める。 「どうした、こっちに来い…。」 起き上がりながら、微動だにしないあまのを呼び寄せる。   押し黙ったまま素直に従うあまのの表情は、うつむいているせいでわからない。   このまま俺の隣にでも座るのだろう。   と、スペースを空けようと浮かせた腰に、あまのが縋りついてくる。   ふわりと鈴蘭の香りがする。  「……どうした?」   一体どうしてこうも怯えているか、見当がつかない。   髪を撫でようと手をあげると、震えている身体が強ばる。   嗚咽とともに、消え入りそうな声が、何度も、何度も。   ごめんなさいと壊れた人形のように繰り返している。 「何があった…?言ってみろ。」   緊張のためか冷えきった体を、温めるように軽く抱きしめる。   ここまで取り乱しているあまのを、俺はあまり見たことがない。   どちらかと言えばあまのは、静かに静かに、誰にも気づかれることなく不安を溜め込み、緩やかに壊れていく性質のはずである。   そのあまのが、一体ーーー。 「兄様が……っ、夢に……!!」   ぐわんという殴られたような痛みが頭部に走る。 「クロトさん…、戦争に行っちゃって……、待ってたの。でも…、兄様がっ!!……クロトさんじゃなくて…、兄様が…!!」 「……落ち着け、馬鹿。」   過呼吸になりかけているあまのを宥める一方で、俺は内心舌打ちをした。   兄が帰らぬ人となって数年、穏やかに過ごしてきたはずだった。   俺とあまのとちはなと、三人が三人、それなりに幸せだったということに間違えはないと思っていた。   それなのに。   未だに兄の記憶が、あまのを蝕み続けている。これはわかりきった事実であり、けれども触れることなく忘れ去ろうと努めてきた真実だ。 「また…、俺の中にあいつの姿を見いだすのか?」   心の奥底で思ったことが言葉になってこぼれた。   縋りつくあまのの手首を掴み、ベッドの上に引きずり込む。 「…っ!?違っ……!!…やめてっ…んっ……」   慌てて抵抗するあまのの身体を力づくで押さえつけて、静止の言葉を紡ぐ唇を塞ぐ。そのまま熱い咥内を蹂躙するように舌を割り入れて、飢えた獣のような乱暴なキスをする。 言い訳などは必要ない。 確かにあいつは生きていたのだから、その存在を懐古することくらい、当たり前のことだろう。   あいつではなくて、俺が代わりに死んでいればーーー。   そう思っているのは、あまのではなくて過去の自分だ。   あまのは悪くない、そんなことはわかっている。   真冬の海に突き落とされたかのように、身体の芯にまで寒気を感じているのは。   翡翠色のその瞳が、俺ではなく今は亡き兄を映しているのではないかという馬鹿らしい考えが、拭っても拭っても、相変わらずに俺の頭を浸食するからなのだから。 「嫌…っ!やめて……」   暴れるあまのの両手首を片手で押さえつけ、服の釦を外していく。   露わになったあまのの肌は白く、そうして柔らかい。 「…逃げるな。」   控えめな膨らみから腰のラインを手のひらで軽くなぞりながら、首筋に口付けする。   泣いているのか、小刻みに震えている身体を、諫めるように鎖骨に歯形をつける。 「は……ぁ…っ…」   切なげな声が漏れる。   嗜虐心が掻き立てられる一方で、これは演技なのではないかと、冷静な自分があざ笑う。   あまのは君影の女だ。 君影の女は、代々男を悦ばせる術を子供に教育する。   それは、血筋が途絶えぬ為に定められたことだ。   なんとも浅ましく、傲慢な考えから生まれた愚かなる風習ーーー。   君影あまのは、その術を身につけている。 「…ぁっ…嫌…っ!!…やめてっ…!…お願い、クロトさん…!!」   下の服を脱がせようと手をかけると、あまのは我に返ったらしく必死に暴れる。   気づかず舌打ちをしていた。   苛立ちがこみ上げる。 「いい加減にしろ…、お互い、初めてなわけじゃないだろうが…っ!!」   騒がしかった部屋の中に、静寂が戻ってくる。   あまのはぴたりと動きを止めて、荒い息をしながらこちらを睨みつけている。   その翡翠色が羞恥と悲しみに満ちているのを見て、言ってはいけないことを口にしてしまったのだと、冷めてきた頭が今更のことに気づいた。   あまのは確かに君影の女だ。   けれども、あまのを初めて抱くはずだった男は、あまのと結ばれることなく死んでいる。   君影の女として、本来なら男を知っているのが当たり前の年齢になっているにも関わらず、あまのは未だその罪悪を知らない。   冷静に考えればすぐにわかることだ。   兄の代わりとしてあまのに宛がわれることになった自分なら、尚更ーーー。 「……すまん…。」   あまのの身体を押さえつけていた手を放し、あまのの上から退こうとする。 くいっと服の裾を引っ張られて、動きが止まった。 「行か……ないで…」 乱れた息の合間から消え入りそうな声が聞こえる。 「クロトさん、私を……」 私を抱いて、と。あまのは俺の手に口づけをしながらそう言った。 「…んっ…は…ぁっ…ん…っ…」   互いの舌を絡めながら、貪るように熱いキスを交わす。   頭の奥が融解を始め、汗とほのかな鈴蘭の香りが脳髄を焼く。   唇を離すと、互いを繋ぐ銀糸がてらてらと艶めかしく輝いていた。 「クロトさん…もう……」   浅く息をしながら、濡れた翡翠色の瞳が俺を促す。   俺の下肢へとのばされたあまのの手を捕らえて、その手を強く握る。 「あっ………!!」   もう片方の手で髪を撫でながら、かぷりと耳に噛みつく。 「今度俺を悦ばせようとしてみろ…?悦楽のどん底につき堕としてやる……」   低く掠れた声で、耳元に囁きかける。   あまのが甘い吐息をこぼしてびくりと震えたのがわかった。   俺が今抱いているのは、あまのという名前のただの女だ。   君影の家も、後継云々の話も、ましてやその汚らわしい風習などは関係ない。   醜いこの感情のままに、俺はあまのを抱いているに過ぎない。   だからこそ、たとえそこに快感があろうとも君影の床の技で悦びを与えられるなど、そんな馬鹿らしいことは嫌だった。 「挿れるぞ…力抜け…」   自分の準備を整えて、熱く猛る中心を宛がう。 怯えた瞳で俺を見つめながら、あまのはこくりと頷く。 「あ……ぁあ…!!」 「………っ!!」   予想以上に強烈な快感に、腰を進めながら俺は歯噛みする。   快楽の逃げ場を求めるように指が白くなるまでシーツを握りこんでいる手をさらって、首に絡ませる。   初めての貫通に耐えるように身体を震わせているあまのを宥めながら、音を立てて崩れそうな理性をなんとか繋ぎとどめる。   俺の存在を、あまのに刻みつけたいーーー。   鬱血の跡や歯形だけでは満たされない、この浅ましい欲情を。   もっと深く、もっと強く、あまのに刻みつけて。   あいつのことは、忘れなくてもいい。   それでも、だ。 「…あまの…、俺を見ろ…」   快楽に濡れた翡翠色の瞳が、俺の姿を映し出す。   兄によく似た顔つきが、瞳の中で険しげに顔を歪めている。   ああ、そうだ、あいつはーーー。   兄はこんな顔はしなかった。   こんな、感情的な、醜い表情を兄はしない。   いつも穏やかな微笑を浮かべてばかりいた兄に、こんな顔ができるわけはない。   切羽詰まった情欲が、解放を目指して全身を巡る。 「あっ、……ああ…っ!!」   あまのが大きく背を反らす。   その様を見届けるように、一足遅れて俺は高みを迎えた。 「はぁ………。」   憂鬱そうにあまのが気だるいため息を漏らす。   深い交わりを終えて、部屋は再び秒針の刻む音ばかりが響きわたっている。 「そういえば、クロトさん。初めてじゃないのよね…。」   あまのは今思い出したとばかりに口を開く。   何を今更なことを、と思いつつ、俺は肯定する。 「……てことは、兄様も経験はしていたってことよね。あの頃には。」   ぼんやりと力の抜けた声で、どうでもよさそうな話をするようにあまのは続ける。   それが果たして本当にどうでもいい話なのか、それともずっと思っていたことなのかはわからない。   そんな差異は、今となっては気にするのも馬鹿馬鹿しいほどに小さなモノだった。 「……そうだろうな、よくは知らん。」   俺も半ば強制的であったしな、とこちらもどうでもよさそうに答えると、あまのは顔をしかめる。   しっとりと汗に濡れた髪を撫でながら、あまのを腕に包み込む。   翡翠色の瞳の奥で影が揺れているところを見ると、なんだかんだ言ってもその事実が堪えたのだろう。 「…まあ、色気だなんだと言ってみたところで、結局は欲と欲のぶつけ合いだからな…これが神聖な行為だというのは馬鹿らしい大人の言い訳だと思うぞ。…あいつが好んでしていたとは思えん…。」 「そうかしら……。」   あまのがため息混じりに言う。   フォローをするように紡いだ俺の言葉は迷走し、結果何の意味も為していない。   数秒の沈黙が過ぎる。   ふと、傍らのあまのがくすりと笑った。 「私たち、ピロートークだっていうのに本当に色気のない話しかしないわね。」   いつも通りの呆れた口調に、先ほどまでの面影は残っていない。 「まあ、特に必要性も感じないしな…、お前とだと。」   叩き込まれた話術もあるが、そんな偽りのものを使うつもりはない。 「……クロトさん。」   あまのの声がさっきまでの元気を失う。 「クロトさんは、私を残してどこかに行ったりはしないよね…?」   まだ言っているのか、考えずに出そうになった言葉をすんでのところで飲み込む。 「もう寝るぞ、バーカ。」   そう言って問答無用でベッド際の灯りを消す。 「うっさい、バーカ…。」   憎まれ口を叩くあまのの身体をぐいと引き寄せる。   あまのの柔らかい髪の感触を弄びながら、その温もりをしっかりと抱きしめて、俺はそっと目を瞑ったーーー。