「ねぇ、そう思うでしょ。クロトさん…。」 なんの変哲もない他愛ない話、けれどもいつものような返事が返ってこない。気になって振り返ってみると、クロトさんは少し難しそうな顔をしている。私の話には上の空だったようだ。 「……クロトさん?話、聞いてる?」 「…ん、いや、…聞いていなかった。すまん。」 どこにでもあるようで、きっと些細なことなのかもしれない。けれども私は、彼の赤褐色の瞳の奥で影が揺らめいていたのを見逃すことができなかった。 家の者が静まり返った夜遅く、私はクロトさんの部屋の前にいる。こんな時間にここに来たのは二回目。だけれど今日は怖い夢などは見ていない。 ノックもせずに扉を開ける。ギィッという音が静かな部屋に響いて、ドキリとする。 しばらくの静寂。部屋の主は目覚めなかったらしい。 息を潜ませながら、ベッドへと歩み寄る。 数日前、私はここで彼と肌を重ねた。   その事を思い出して、身体が僅かに熱を帯びる。   ベッドに眠るクロトさんは、穏やかな表情をしている。   その唇に、キスをしようと顔を寄せる。 「……ノックもせずに、夜這いでもするつもりか…。」   赤褐色のその瞳が、暗闇の中怪しげに輝いていた。   息も苦しくなるほどに舌を絡めて、互いの唾液を交換する。歯列をなぞって、なぞられて、どちらともなく仕掛けたキスは、私の脳を熱で蝕んでいく。 「…一体、どういう風の吹き回しだ…?」   ようやく満足して離れると、熱に霞んだ瞳が私を見据えていた。二人をつなぐ透明の糸がてらてらと光っている。 「別に?…こないだの仕返し。」   クロトさんの上に跨りながら、彼の服のボタンを外していく。薄い肉付きの無駄のない身体が露わになって、この胸に抱かれたのだと思うとくらりと目眩がした。   浮き上がった鎖骨に甘噛みをしつつ、下を脱がせようと手をのばす。軽く触れた彼の中心が確かに熱を持っていることが嬉しくて、白い首筋にかぷりと噛みついた。 「っ……、痕を残すなよ?ちはなに気づかれる。」   口端を歪めて怪しげに笑う彼の筋張った手が、私の髪をさらりと梳く。   その余裕が気に入らなくて、腰骨の辺りを親指でぐいと抉るとクロトさんの腰が僅かに浮いた。 「…っ…!」   息をつめたクロトさんが、僅かに眉をひそめる。   その額に軽い口づけをしながら、腰骨のラインに沿って手を下肢へと滑らせる。熱のこもった曲線を人差し指でつーっと撫でると、小さく舌打ちが聞こえた。   男を喜ばせる術なら、私はいくらでも知っている。その術を使って男を魅了し、そして君影の血を繋げるためにーーー。   けれどもそんなことなどは一切関係なく。   クロトさんを堕としてしまいたい、ただその欲望だけがぼんやりとした頭の中を漂っている。 「声くらい……、出せばいいのに。」   熱を弄びながら、微かに残る理性に従って人工の膜を被せる。   静かな部屋に聞こえるのは、私の乱れた息ばかり。それが少し悲しくて、熱を掴む手に力をいれる。 「は…ぁ…っ…」   いつもより熱っぽく、掠れた吐息が漏れる。驚いて顔を上げると、僅かに開かれた薄い唇が声のない悪態を紡いでいた。   目元を腕で覆った大きな手が、シーツを強く握っている。   私は気づいている、彼がいつでも私を突きのけることができるということを。   けれども、私は知っている。彼がそんなことをしないということも。   自分がずるいことをしているのだと、私は知っている。   その白い波を目で追いながら、私はベッドに手をつき上体を起こす。 「……んっ…。」  熱いモノが私を貫く苦しさに漏れた声が甘ったるい。 「……無茶はやめろ…。」   自分だって我慢しているくせに。   腰を支えるようにのばされた手を捕まえて、その白い指先にキスをする。   クロトさんの指は細長くて綺麗で、そしてとても甘い味がした。 「……駄目、今日は…。」   自分の声が切なげに掠れているのを遠くに聞く。   クロトさんの胸に手をついて、自ら快感を刻みこむ。   満たされている幸福感、けれども同時に感じる甘い背徳感ーーー。   うっすらと汗ばんだ手が髪を撫で、頬を滑り、そして首筋に来てぐいと引き寄せられる。 「あ……っ…」   突然のことにその胸に倒れ込んだ拍子に、熱が一層奥を貫いた。 「駄目…、待っ……んぅ…」   たくましい腕が私を抱きしめて、抗議の言葉は唇に奪われる。   熱い舌に咥内を蹂躙されて、貪るように互いを求めあう。   胸の鼓動が激しくなり、頭の奥が焼け爛れて、終わりが迫っていることを感じる。   目元を覆っていた腕が外され、髪を梳かれ、撫でられる。   ようやく見ることが出来た赤褐色の瞳は、欲に濡れて深みを増し、燃えているように見える。   律動に合わせて溺れるように私を見つめている瞳がぼんやりと焦点を失う。   不意に、もう片方の瞳を見てみたくなった。   濡れた髪を撫でながら、性急な手つきで眼帯の紐を解く。 「ん……」   眉根をひそめつつ、けれどもクロトさんは抵抗しない。   布の擦れる繊細な音の後、露わになった翡翠色の瞳がうっすらと開かれる。 「あっ……。」   そこにあるのは兄様に似た穏やかな瞳ではなく、強い快楽を必死にこらえようともがく、獣のように鋭いクロトさんの瞳だった。   君影黒斗ーー。   私の愛するこの人は、どこまでもどこまでも自分の苦しみを隠してしまうけれど。   私はその心を溶かして、その苦しみを抱きしめたくて仕方がない。 それは、きっと、貴方の一番嫌うコトーーー。   それでもーー。 「クロトさん……クロト、さん…」   壊れた人形のように彼の名前を何度も呼んで、その身体を抱きしめる。 「……くっ…ぁっ…!!」   クロトさんの喉仏がこくりと動くのを間近で見ながら、私たちは共に高みを迎えた。 「くそ……。」   いつもの声が、力なく悪態をつく。   時計の音だけが響く静かな部屋には、激しく求め合っていた先ほどまでの面影は残っていない。   彼の腕に抱かれながら、私はその細くたくましい身体に縋っている。   少し汗の匂いも混じった、彼の香りが心地よい。   どうやら私が主導権を握っての行為がお気に召さなかったらしい。 「別に…、いいじゃない。そんなに気にしなくても…。」   宥めようとそう言うと、険しい顔をしているクロトさんにじとりと睨まれる。 「よくない…。それに、どうして女のお前が男用の避妊具を持っている。」   怒ったような、呆れたようなよくわからない口調でクロトさんは言う。 「今の時代、女も万が一の時のために持っておくべきらしいけれど?」   どこかで聞きかじった情報を告げる。 「万が一……?」 「さっきみたいな?」 「……全く笑えないな。」 そう言ってクロトさんは苦々しい微笑を浮かべる。 「どうしてそんなに嫌なの…?」 気になって、訊いてみる。 「そんなもん、誰が教えるか。」 バーカと、クロトさんは呆れた顔をした。 「また馬鹿って言った!」 「事実だからな、何度でも言うぞ。」 憎まれ口を叩くクロトさんの顔を引き寄せて、その額に軽くキスをする。 唇を離して顔を見ると、驚いたように赤褐色の瞳が見開かれていた。 「………クロトさんクロトさん、アホ面晒してますけども?」 悪戯っぽくにやりと笑う。 「………もう、寝るぞ。」 そう言ってクロトさんは寝返りをうち、有無も言わさず灯りを消す。 その一瞬、クロトさんの耳がほのかに紅くなっていたのを私は見逃さなかった。