なんでもない、いつも通りの昼下がり。   私は紅茶を飲みながら、クロトさんはコーヒーを飲みながら、思い思いに好きな小説を読んでいる。 こんな時間に、報告書ではなくて物語を読めるのはずいぶん久しぶりな気がした。 「珍しいな……」   そんな声が聞こえて、思わず顔を上げる。 「え?」 「お前の読んでいるそれ、恋愛小説だろう? 珍しい」 「そう……?」 「ああ。どうした?」 「ん、たまにはいいかなって」   曖昧な微笑を返してみたものの、クロトさんは納得してはくれない。 怪訝そうに私を見ている。   ふと、扉が叩かれた。私とクロトさんは同時にそちらを見やる。   部屋の主の私が声をかけると、使用人が顔を出した。 「失礼します。 あまのさま、こちらにクロトさまはいらっしゃいますか?」 「いるわ」 「どうした?」 「お客様がいらしてます」 「誰だ?」 「それは……」   普段ならその場で用件を言う使用人が、口ごもってしまっている。 その原因が私だと言うことは、彼女の視線でわかった。   ふう、と息を一つついて、私はクロトさんを見た。 「……いってきて。 私がいては、都合が悪いことみたいだから」   ほんの少しためらってから、クロトさんは使用人の方へ歩を進める。   声をひそめて交わされる会話の内容は、私の耳には届かなかった。 だけど、ある名前だけ、聞こえた気がした。   たしか、クロトさんの昔の恋人の名前。   その記憶に間違いはなかったようだ。 クロトさんは、なんとも言えない表情をしている。   では、と頭を下げて使用人が去ると、部屋には私たちだけが残された。   少し前の心地よい沈黙はどこかに消え、思い空気ばかりが部屋を満たす。 「……以前、お付き合いしていた方?」   どうせ気まずいなら、と、思い切って口を開く。   クロトさんは苛立たしげに目を伏せて、小さく「ああ」と答えた。 「何を今頃……」 「未練じゃないの?」   言ってから、胸が痛んだ。 (……馬鹿らしい)   婚約者がいても、男女交際の経験くらいはしておくものだろう。 現に、私も何人かと交際した。   それでも、私たちにはお互いと結婚するという以外の選択肢はない。   仮にクロトさんが、元の恋人を愛していたとしても。 「あまの……?」   怪訝そうに声をかけられて、自分が険しい表情をしていたということに気づいた。 眉を寄せていたらしく、眉間が痛い。 「……なんでもない。いってきてくださいな」 「……ああ。また後で」    パタン、と、乾いた音を響かせて扉が閉まった。   私は椅子の背もたれに寄りかかり、深く息をつく。 「何を動揺しているの、私は……」   読んでいた本を、しおりを挟むこともなく閉じた。 恋愛小説なんてもの、読んでみようと思ったこと自体が間違いだったのかもしれない。   どうして、自分が目の前の人こそを好きだと思えるのだろうか、登場人物たちは。   何人目かの元恋人に言われたことを、思い出してしまう。 『抱きしめても、キスをしても、君は俺を見てはくれないんだな』   ……多分私は、恋人だった人の一人も恋したことはないし愛したこともない。   私が付き合った人は皆、どこかクロトさんに似ていた。   婚約者となっても、決して私に触れてくれない彼に。   触れてくれないだけなら、まだ良い。 あの人は私のことをどう思っているのか。 私は、それすらも知らない。   その寂しさを埋めようとでもしていたのだろう。 でも、所詮は別人だ。 だから、私は身体をあずけることは出来なかった。 (中途半端な処女だな……)   君影の因習のために男を悦ばせる術を知っていながら、私自身の身体はまだ男を知らない。   でも、クロトさんは違う。 あの人は、女を知っている。   それを思い出した瞬間、私は立ち上がり、そのまま部屋を後にした。   自分がどうして、応接室に向かっているのかわからなかった。 ただ、気づいたら足は歩みを進めている。   ……きっと、私は見てみたいんだろう。   あの人の胸に抱かれただろう女性を。   そんなことを考えながら廊下の角を曲がると、応接室の前で逡巡している影を見つけた。 「……ちはな? どうしたの?」 「姉様っ」   声をかけると、妹のちはなはこちらへ小走りで近寄る。 そのまま私に抱きつき、はあと息をついた。 「どうしたの?」 「兄様にお客様が来ていて、気になって」 「ああ……」 「姉様は?」 「同じようなもの」   言いながら、扉の方を見やった。 かすかに開いている。 「元から開いていたの?」 「はい……兄様が閉め損ねるなんて、珍しいですね」 「閉めないと……」   ちはなを離して、扉に歩み寄る。   手を伸ばすと、中の会話が聞こえた。 「何度言えばわかる。お前に興味はない」 「そんなことを言わないでください、肌を重ねたこともあるじゃないですか」   扉に触れようとした手が、その場で止まる。 震える手を見ていたくなくて、視線を扉の中へと移した。   扉の向こうにあるのは、見慣れた長身と、初めて見る女性。 彼女の体つきは女性らしい柔らかな曲線を描いていて、私の痩せた身体とは正反対に見えた。 「馬鹿馬鹿しい。 身体の繋がりがあれば心もつながれると思ったのか?」 「心の繋がりがあるから抱いたのでは?」 「それはどうかな。 想っていなくても抱くことはできる」  想っていなくても抱けるのか、あの人は。 そんな割り切り方、私には出来なかった。 あの人が男で、私が女だからだろうか。 「では、私が触れてもかまいませんね…?」   女性があの人に近寄る。頬に手を伸ばしている。 (……触れないで)   クロトさんに触れないで、と。   そう言えたらどんなに楽だっただろう。   だけど、私にはそれを言う権利はない。 婚約者とは名ばかりで、互いの気持ちを確認したこともない、私には。   頬に触れ、唇をなぞって。   女性はクロトさんに顔を寄せ、そのまま唇を重ねた。 (どうして、抵抗しないの)   あなたの手なら、払いのけることもたやすいはずなのに。   どうして、そんなに長く唇を重ねるの。 もう過去の人なのでしょう。 なのに、どうして。   くらりと目眩がして、私はその場に膝をついた。   ぱた、と小さな音がして、気づくと扉は閉められていた。 「姉様、しっかりなさってください」   心配そうな顔をしたちはなが、膝をついて私を見つめていた。 「ちはな……。 大丈夫、大丈夫よ……だから、ね」   心配しないで、と言う前に、私はちはなに抱きしめられていた。   ちはなは私の頭を抱え込むようにして、ゆっくりと背を撫でてくる。 「よしよし、です。 落ち着くまで、こうしていますよ」 「どこでこんなこと……」 「姉様がいつもしてくださることじゃないですか」   ね? と。   首を傾げて微笑むちはなを見たら、少しだけ安心した。 「大丈夫です、ぎゅーするのは、好きな人にだけですよ。 兄様も、わたしも」 「そう…?」 「はい!  ここは寒いです、姉様、わたしのおへやにいらしてくださいな。 今日のお勉強見てください」   まったく、情けない。 たかがこれだけのことで、この子に気を遣わせてしまった。 「そうね……行こっか」   なんとなく部屋の中を気にかけつつ、私はちはなに手を引かれて、その場を後にした。 一日中、私はクロトさんの顔が見られなかった。 あの後どれくらいして、二人が応接室から出たのかはわからない。 だけど、すれ違うときにかすかに鼻孔をくすぐる知らない香水の香りは、私の心を乱すには充分だった。   いつもよりも早い時間に寝てしまおうとしたけれど、もやもやとした気持ちは拭えなかった。   使用人も家族も寝静まっただろう時間に、私は自室を出てクロトさんの部屋に向かった。   震える手で、中の人にも聞こえないだろうというくらい小さく扉を叩く。 「入れ」   返事があったことに若干戸惑いつつ、私は扉を開いた。 「あまのか、どうした」   クロトさんはベッド脇の椅子に腰掛けて、本を読んでいたようだった。 「……ベッドサイドの明かりだけじゃ、本を読むのには暗いんじゃないの?」 「まあな。もう寝るところだったからいいんだ」   クロトさんはそう言いつつ本を閉じ、ベッドに腰掛けなおす。 「……そんなことを聞きにきたわけじゃないんだろう?」   来い、と言われ、私は大人しく近寄る。   なんとなく、クロトさんの膝の上に座ってみた。 「俺は椅子じゃないぞ」 「知ってる。なんとなく、座りたくなっただけ」   そうか、とだけ答えたまま黙るクロトさんを、胸の中に抱え込んだ。 「何がしたいんだ」 「こうしてれば、私の匂いになるんじゃないかと思って」 「……あいつの香水のにおいなんか、もう薄れてるだろ」   声の響きから、なんとなく楽しんでいるらしいことが伝わってきた。 その余裕が、ひどく憎らしい。   私の心は乱されたまま、余裕なくこの人を欲しているのに。 「ねえ」 「ん?」 「……どうして、私に触れないの?」   ずいぶん率直な聞き方だな、と自分で呆れる。 でも、やはりそれが引っかかっていた。 「触れてるじゃないか」 「そういうことじゃない。 男として、どうして私に触れてくれないの」 「……触れてほしいのか?」 「……うん。それは、ずっと考えてたことだけど」   クロトさんの頭を抱える腕に力を込める。 良いにおいのする髪に顔を埋めた。 「だめ。私おかしい」 「何が」 「あなたを独占したい。 私以外に触れさせたくない。 触れてもらいたくない」   腕をほどいて、クロトさんの頬を手で包むようにして、私の方を向かせた。 片方だけの紅玉の瞳が、真摯に私を見つめている。 「……あなたがほしい」   それが出来ないことだと、私は知っている。 それをするには、私たちは「自分」が強すぎる。   私はこの人のものにはなれない。私は私のもの。   それはきっと、この人も同じ。 この人は、この人以外の誰のものにもなりはしないだろう。 そんなことは、とうの昔から知っている。   それでも、この醜い欲を晒さずにはいられない。 「愛してるなんて綺麗な言葉は言えない。 あなたがほしい。 私のものにしたい。あなたを……」   手に入れたい、と言う前に、唇を塞がれた。 軽く触れるだけですぐに離れてから、クロトさんは私の頬を撫でた。 「……馬鹿か、お前は。聡いくせに、鈍すぎる」   膝からおろされて、今度は私がクロトさんに抱きしめられる。 「焦がれてたのは俺の方だと、どうして気づかない。 ……別の女を抱けば、お前に執着しなくなると思ったのに、そんなことはなかった。 むしろ満たされない虚しさがつのるだけだった」 「それなら、どうして触れなかったの。 婚約者なんだから、触れても差し支えないのに」   はあ、と、クロトさんが息をつく。 「……そうお前に認識されたら、と思うと、抱けなかった。 兄貴が死んで、婚約者になれたから抱くのだと思われてしまったら、やるせないことこの上ない」   そんなことを考えていたのか。 「……ばか」 「誰が」 「あなたが。 ……私ね、白夜兄様に対する気持ちとあなたに対する気持ちが違うことくらい、自分で知ってる」   兄様に対しての気持ちは、自分の庇護者に対しての感情だったのだと思う。 無条件の愛情を与えてくれる、そんな安心感からくる愛情。   例えるなら、ちはながクロトさんに対して抱いているような。   だけど。 「……あなたには、そんな穏やかな感情を向けることはできない。 もっと…女としての感情を、向けてしまう」   私だけを見てほしいという独占欲と、この人の身体に溺れたいという肉欲。   同時に、私の視線が誰か別の人を見ることを許さないでほしいという被束縛欲が沸き上がる。   はあ、とクロトさんが息をついたのが聞こえた。 「お前も、女か」 「……ええ」   言葉少なに答える私の髪を梳きながら、クロトさんは呆れたような口調で続けた。 「……人のことは言えないか。俺も男だ」   そう言ったかと思うと、クロトさんは私の首筋に顔を埋め、そこを強く吸った。 「ん…っ」   きっと、赤く痕が残ってしまうだろう。 吸われた箇所が熱を帯びる。   耳元に唇が寄せられた。 かすかにかかる吐息がくすぐったい。 「……あまり、表には出したくなかったが」   あまの、と囁かれる。 声の響きが、いつもの硬く冷たいものではなく、甘く熱っぽいものとなっているように聞こえた。 「お前が男と話すと、嫉妬してしまうんだよ、俺は。 いっそお前をこのベッドに縛り付けて、他の者の目に触れないようにしたい、という程度にはな」   腰に腕が回され、寝間着の帯が解かれる。 身体にまとわりつくそれを、クロトさんに取り払われてしまった。 やむなく、下着姿を彼の前に晒す。   自分ばかりが肌を晒していることが少し悔しく、私はクロトさんのシャツの釦に手をかける。   二人の肌がほとんど露わになると、どちらからともなく互いを抱きしめあった。 布地越しでない、直接肌が触れる感覚が心地よい。  「あ……っ」   腰から背にかけてをクロトさんに撫で上げられた拍子に、思わず声が漏れた。 こんなことで、と思うと恥ずかしく、私は抱きついている腕に力を込める。 「細いな……」   そのつぶやきに、ふと、昼間訪れたクロトさんのかつての恋人を思いだした。 私とは正反対の、女性らしい曲線を描く肢体のひと。 「……もっと、女らしい身体の方がいい?」   あの人みたいに、という言葉は、すんでで飲み込む。 自分でもわかるほどに、声が震えてしまっていた。 「馬鹿」   身体を離された。 かと思うと、ぐいと顎をとらえられて無理矢理上向かされる。 そのまま、口づけを落とされた。 唇をついばまれる感覚に、軽いめまいを覚える。   それだけではすまず、クロトさんの舌が私の舌に絡められた。 「ん……はぁ……」   息とも声ともつかぬものが漏れても、クロトさんは口づけをやめようとはしない。   咥内を犯され、歯列の裏をなぞられる。 艶めかしい水音が響く度に、自分がこの人に捕らわれる感覚に陥った。 (どうして……)   今まで、恋人となった人と口づけを交わすことはあったけど、 「こんなものか」 と冷めた感覚しか抱けなかった。 自分自身が快楽を与えたことはあっても、与えられたことはない。   それなのに、今はこの人の口づけにこんなにも感じて、もっとと欲している。   口づけも君影の性技のひとつだからなのか、それとも、私がこの人に焦がれているからなのか。   それすらも、なんだかどうでも良い気がした。   随分と長くそうした頃に、私たちは唇を離した。 互いをつなぐ銀糸の輝きが、どこかなやましい。 「ここまで求められてわからないのか、お前は」 「え……?」 「体つきは問題じゃない。お前が良い」 「だって、さっき細いなって」 「まあ、馬鹿な考えからだ。 ……激しくしたら、折れてしまうんじゃないかとな」  「……ばか」   言いつつ、私はクロトさんの首筋ーー自分が痕をつけられたのと同じ箇所--に吸いついた。 そっくりな赤い痕が、彼に刻まれる。   ふと、目の端に眼帯の紐が映った。 かつての自分の、白夜兄様を思い出すから封印してという言葉を受けてクロトさんがつけるようになった、鈴蘭の眼帯。     隠された瞳の色が、見たくなった。   結び目に手をかけ、そっと解く。 しゅるり、と衣擦れの音がかすかに響いた。   色の違う両の目が、同じいろを湛えて私を見つめている。 そのいろを形容するならば、情欲に濡れた、とでも言うのだろう。   私はそっと、クロトさんの瞼にくちづけた。 求められている事実が、なんともうれしい。 「……あまの」   名前を呼ばれたかと思うと、そっとブラのフロントホックを外された。 身体を隠そうとした私の手を、クロトさんがさらう。   身体がベッドに倒された。 捕まれた手は頭上で固定されて、私には何もできない。 「隠すな」 「だって……」 「見せろ。全部」 抗えない響きを声の中に感じ取って、私はこくりと頷いた。 それを認めて、クロトさんはようやく手を離す。   露わとなった胸に、クロトさんの大きな手がそっと触れた。 「は…ぁ……」   撫でられる感覚に、小さく声が漏れる。 心地よいのにもどかしい、奇妙な感じだった。   撫でていた手で、優しくもみしだかれる。 そうかと思ったら、上向いた先端をつままれた。 「あっ……」   つままれ、擦られ、はじかれて。 さんざん指でなぶられた後に、口に含まれ、舌で転がされる。 指とは違う、咥内の感触が一段と私をせめたてた。   刺激が与えられる度に、じんとした疼きが全身に広がる。 疼きは声になって、普段よりも高く甘い響きで唇から漏れた。   クロトさんの手はいつのまにか、私の太股をゆっくりとなで上げていた。 その手が下着の紐にかかり、解かれた気配を感じる。 「や……」   思わず足を閉じようとしたものの、挟み込まれていたクロトさんの足に阻まれてできない。   秘所の敏感な花芽に触れられ、鋭い快感に襲われる。 「あぁっ!」   一層甘ったるく甲高い声が自分の唇から漏れた。 その事実が信じがたく、私は口元を覆った。 「私、なんて声……」 「……感じやすいな、お前は」   花芽を弄んでいた手で、クロトさんは口元を覆っていた私の手を外した。 彼の手から漂い鼻孔をつく自分の匂いに目眩がする。   これが、女の匂いなのだろうか。   外された私の手は自分の秘所へと導かれた。 「自分が濡れてるのがわかるだろう?」   頷く以外の反応ができなかった。 私のそこは潤って、少し指を動かすだけでくちゅりと淫猥な水音を響かせる。   自分の指ではもどかしく、私はクロトさんの手を導いた。 入り口のあたりを刺激され、驚いて彼にしがみつく。 「んぅ……!」 「男に慣れていない反応だな…君影の女とは思えない」   指を中まで入れ、内側の敏感な箇所を刺激しながら、クロトさんは呆れたような感嘆したような声でつぶやいた。   その内容に何か誤解が含まれているとさとり、漏れる声の間から抗議を試みた。 「だって…、触れらっ…、れる、の……んっ……初めてだもの…」 「え?」   クロトさんの動きが止まる。 本当に誤解していたのだと知り、私は吐息の多分に混じった声で説明する。 「男の人へすることは教えられたけど…触れられたことは、ないの」   元々、性技の教育自体が「君影の血を絶やさぬこと」「外の血を入れないこと」を目的としている。 直系の私が、将来頭首となる人以外に抱かれることは、禁止されている。   ただ、たとえ一族に禁じられていなくても、私は他の人には抱かれなかっただろう。 「……恋人がいたから、もう経験していたと思っていたが」 「触らせられなかったの。 違う、この人じゃないって。 ずっと、触れてほしかったのは……」   あなた、と。   言う前に、抱きしめられた。   クロトさんは、ただ黙って私の頭を撫でる。 「クロトさん……」 「ん?」 「私には、させてくれないの……?」   今のままだと、私ばかりが触れられて、この人に一層溺れてしまう。 それがなんとなく気に入らない。   この人を悦ばせるために覚えた術で、私に溺れさせたかった。   ふ、と、クロトさんが微笑んだ気配が伝わった。 「させない」 「ずるい」 「今更。お前は大人しく俺に溺れればいいんだ」 「あなたは、私に……」 「俺は、とっくに……」   続く言葉を聞きたかったのに、クロトさんは黙ってしまった。 代わりとばかりに、足を開かされる。   伸ばされた指で弄ばれるたびに、不思議なほどに水音が響く。 無理な動かし方は全くされていないのに、快楽は異様に強い。   感触と水音に反応して、下腹の奥がうずいた。 「は…ぁ……」 「……俺も、もう」   聞こえるか聞こえないかわからないくらいの大きさで、クロトさんの言葉が聞こえた。   熱を持ったクロトさんのそれが、あてがわれた。 知らず知らず、身体に力が入ってしまう。 「力を抜け……大丈夫だから」   いつものように低く響く、だけどいつもよりも柔らかな声色に安心する。   全て預けよう、と。   そう思ったら、自然と力が抜けた。   息をついたと同時に、クロトさんに貫かれる。 「あ…っ!」   閉じられていた箇所が開かれる圧迫感と、不思議な充足感とが混じりあった。   涙で潤んだ瞳でクロトさんを見上げると、熱をはらんだ量の瞳が愛おしげに私を映している。 「はいった…の……?」 「ああ…痛いか?」   ううん、と首を振った。 初めては痛いと聞いていたけれど、そうでもなかった。   だから、今泣いてるのはきっと、嬉しさのせいだろう。   ずっと求めていた、満たされなかったものが得られた、という。   だけど、クロトさんは心配そうに口を開いた。 「……辛ければ、このまま終わってもいいぞ?」   辛くなんか、ない。 こんなふうに中途半端で終わってしまうことの方が、よほど辛い。 「やめないで……」   手を伸ばして、クロトさんの頬を撫でる。 ともすれば瞳を隠しそうになる前髪を払いながら、「お願い」と続ける。  「最後まで……」   して、という言葉は声にならなかった。   クロトさんは小さく頷いて、ゆっくりと動きはじめる。   律動に合わせて乱れる自分の呼吸と声の合間に、クロトさんのかすかに乱れた吐息の音が聞こえた。 「あっ…ぁ…あぁっ……」   徐々に早さと強さが増していくのがわかる。 自分の声も、クロトさんの吐息も乱れて、混ざり合う。   頭の奥に霞がかかる。 終わりが近づくのを本能で感じ取った、その刹那。 (この人のものに、なりたい)   君影の名も、婚約者という関係も、全て投げ捨てて。   私を支配する、私という意識からも抜け出して。   ただ、この人のものになってしまいたいと。   そんな思いが、脳裏をかすめた。  「……ああぁっ!」   自分の背が、大きく反ったのがわかった。   真っ白になった意識の片隅で、クロトさんのくぐもった声と、脈打つ感触をとらえた。       「……疲れたか?」   腕に抱かれ、ほんの少し汗の匂いのする身体に縋る私に、クロトさんは声をかける。 「うん……少し、だるい……」 「だろうな」   頭を撫でられると、安心感でそのまま眠ってしまいそうになる。   うとうととしていると「あまの」と名前を呼ぶ声が耳朶をついた。 「なあに……?」 「眠かったら、眠りながら聞けばいい」   それって、聞けないんじゃないかな。   そんなことを思いつつ、こくりと頷く。 「……なくお前を見ながら、お前を手に入れたいと思った」 「うん……」 「……達する瞬間は逆だったな。 お前のものになってしまいたいと、思った。 君影の名も、婚約者という関係も、全て投げ捨てて。 俺を支配する、俺という意識からも抜け出して」   ただ、お前のものになってしまいたいと。   聞きながら、なんとも言えない嬉しさがこみ上げる。 私が考えてたことと同じことを、この人も考えていたのだ。 「ふふっ……」 「おかしいか?」 「ううん。同じことを考えていたのが、うれしくて」 「そうか」 「うん……」   頭を撫でられ、背を撫でられ。   だんだんと、眠くなってくる。心地よい重みが、瞼を覆った。 「クロトさん…好きです……」   大好きです、と。   目を閉じながら小さくつぶやいた。   意識が沈む寸前に、クロトさんが小さく「好きだ」と返してくれた気がした。 -fin-